平昌パラリンピックで見事銅メダルを獲得した、成田緑夢選手。
成田童夢を兄に持つ、スポーツエリート一家で育った成田選手の怪我の原因は一体何だったのでしょうか?
そして、どのようにして怪我から立ち直ったのか?
ひたむきな成田選手の姿に感動した人も多いはずです。
そんな成田選手のこれまでをまとめてみました。
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怪我の原因は?悲劇は5年前、トランポリンの練習中に起きた
成田緑夢(ぐりむ)選手は兄・童夢、姉・メロの末っ子。
1998年の長野オリンピックでは、「スノーボードの神童」と呼ばれ注目されました。
兄と姉は共にトリノオリンピックに出場しており、弟の緑夢選手もオリンピック出場を期待されていました。
父・隆史さんの英才教育を受け、1歳からスノーボードを始め、2歳からはウェイクボードを教えられ、バランス感覚を養う為にトランポリンの練習もするなど、人並み外れた運動神経の持ち主でした。
ウェイクボードもトランポリンも、スノーボードの上達の為に不可欠なバランス感覚を養う為のトレーニングの一貫でした。
大阪市内にある成田選手の自宅の屋上には、トランポリンの練習場があります。
成田三兄弟はその場所でトレーニングを重ねていました。
空中で体の動きをコントロールできるようになると、陸上での体のコントロールは驚くほど簡単になると、成田選手は語っています。
5年前のその日、成田緑夢選手はいつものようにトランポリンの練習をしていたそうです。
毎日毎日300回、大技を練習していたという成田選手。
その日は両足に2.5kgの重りをつけた状態で練習をしていたと言います。
空中でバランスを崩し、前宙のようにして体勢を整えようとした時のことでした。
足に重りをつけていた為に膝が曲がりきらずに足を伸ばした状態のまま、左肩が左膝にぶつかり、普段曲がらない方向に曲がってしまったと言います。
左膝前十字靭帯後十字靭帯断裂という大怪我を負い、医師からは左足の切断も勧められるほどの状況でした。靭帯の断裂と同時に動脈も破裂しており、壊死の危険性もあったのです。
しかし、父・隆史さんは「死んでもいいから、左足は残しれくれ」と医師に頼み込んだそうです。
腓骨神経麻痺となった緑夢選手。障害者等級は6、障害者手帳も交付されました。
4度の手術を繰り返し、半年間にも及ぶ入院生活。歩けるようになる可能性は20%と言われたそうです。
怪我をしてもなお、スポーツを続けさせようとする父・隆史さんに、緑夢選手は「スポーツはもうやりたくない」と告げました。
怪我から復活したきっかけ
ずっと父の教えのもとスポーツを続けてきた緑夢選手ですが、怪我をきっかけに父から距離を置くようになりました。
半年の入院の末、退院したあとはスポーツから離れ、友達と何気ない日常を過ごしていました。
そんなある日、友人に誘われて行ったのは、ウェイクボード。
左足が麻痺した状態ではバランスが取れず、うまく乗ることはできないものの、少しずつできるようになると、新しいことができる喜びを感じたと言います。
純粋に楽しいと思えたことから、ウェイクボードに挑戦し、1年後には健常者も出場する大会で見事優勝を果たしました。
すると、緑夢選手のもとには、同じ障がいを持つ人や同じ境遇の人たちから、「希望をもらった」「自分も挑戦したい」「勇気が湧いてきた」と多くの声が集まってきたのです。
成田緑夢の“夢”
自分が活躍することで、人々に夢や希望を与えることができることを知った成田選手は、もっと大きな舞台でもっと多くの人に勇気を与えたいとの想いから、パラリンピックを目指す決意をしました。
障がいを持っている人、怪我をして引退を迫られている人、一般の人に夢や感動、希望、勇気を与えられるアスリートになりたい
これが緑夢選手の夢になったのです。
成田選手は、怪我によって失ったものよりも、得たものの方が多いと語っています。
怪我がきっかけとなり、人々に夢や希望を与えられる人間になりたい、という夢を持てたこと。
怪我に感謝と語る成田緑夢選手の強さが光っています。
まとめ
5年前のトランポリンでの怪我を乗り越え、自分自身が頑張ることで多くの人を勇気づけたいと語る緑夢選手。
今回の平昌パラリンピックでの活躍は、見ている人々に夢と希望と勇気と感動を届けてくれました。
成田選手の怪我に感謝できる精神力と、怪我をも味方につけるその強さに心を打たれました。
ともすればネガティブな要素になってしまう、怪我。
それを自分の力でポジティブに転換する緑夢選手の姿に私も励まされました。
環境ではなく、自分が変わること、環境をどう捉えていくのか、それを活かすも殺すも自分次第なんですね。
成田緑夢選手、夢と希望をありがとう!